『やすらぎの郷』と「慕情」

6月29日午後、中島みゆきファン仲間でつながっているSNSのタイムラインが一挙にどよめいた。

主題歌「慕情」を提供しているドラマ『やすらぎの郷』 64話の冒頭――老人ホームの入居者たちがサロンで「やすらぎ体操」をしている場面の手前を、車椅子をゆっくりと押しながら斜めに横切ってゆく、青いエプロン姿のすらりとした女性――中島みゆき!

この予期せざるカメオ出演のサプライズには、私を含め多くのファンが驚喜し興奮した。車椅子に乗っていた、サングラスをかけた高齢の男性は、このドラマの脚本家・倉本聰である。

同じ局の情報番組「ワイド! スクランブル」では、同日さっそくこのサプライズを取り上げ、

ドラマのスタッフに確認したところ、あのご夫婦は「やすらぎの郷」に5年前ぐらいから入居されてる方です。…今後も通り過ぎることがあるかも?

との、さらに気を持たせるレポートがあった。

この場面の中島みゆきは、上記の通りのすらりとした若々しい姿勢に加え、録画をよく観直すと、足元は高いヒールの靴。およそ老人ホームの入居者には見えないのだが、そこはまあご愛嬌ということだろう。

『やすらぎの郷』の辛辣さ

倉本聰は――おそらく詩人・谷川俊太郎に次いで――中島みゆきが若い頃から私淑してきた「言葉の使い手」である。二人の接点の詳細についてはここでは省くが、今回の主題歌提供にあたってのコメント、とくに

倉本さんがね。ひと言ひと言を、命を削るようにして紡いでいらっしゃるんですから。そこへ徒や疎かな歌詞など書いてはならない……

という言葉からは、彼女のリスペクトぶりがよく窺える。

ところで倉本聰の脚本というと、長期にわたってシリーズ化された『北の国から』(1981年~)に代表されるように、シリアスな人間ドラマの印象が強かった。

この『やすらぎの郷』にも――後述するように――シリアスなエピソードは登場するのだが、その一方で、悪趣味一歩手前と言ってもいいぐらいの痛烈なギャグやパロディが、この2クールという長丁場のドラマの所々にアクセントをつけるのが、当初はやや意外でもあり、かつ大いに楽しませてくれる要素にもなっている。

今回の二人のカメオ出演の場面にしてからが、同時に流れる、脚本家・菊村栄 (石坂浩二、このドラマの主役兼語り手) のナレーションの内容が――

「透析ブルース」「いぼ痔の親父」「糖尿だヨおっ母さん」「痛風の風に吹かれて」「前立腺と新幹線が豊橋の駅で恋をした」……

――これらの身も蓋もないタイトルは、かつて一世を風靡したお笑い系バンド「ファンキー・ドッグ」のただ一人の存命者で、朝の館内放送を担当している入居者のひとり中井竜介 (中村龍史、「やすらぎ体操」の作詞・作曲者でもある) が次々と世に送った、病気・自虐ネタの曲名なのである。

「やすらぎ体操」が、NHKのテレビ体操のパロディであることなどは、もはや言わずもがなの蛇足というべきだろうか…… (「やすらぎ体操第1」というからには、「第2」もあるのか、と期待させられもするが)

ここまでの前半のストーリーでも、かつての大スターたち、とりわけ絢爛たる老女優たちが繰り広げるドタバタが――時に、彼女たちの女優としての現実の人生とも二重写しになって――笑わされながらも、時に物哀しさを漂わせた。

ついでに言えば、このようなコミカルとシリアスとの落差の激しさも、主題歌を歌っている中島みゆきのキャラクターとよく符合しているという印象を受けないでもない。

 

さて、このドラマを語るときに何より重要なのは、その設定そのものが、テレビというメディアに対する辛辣な批判になっているということだ。

――かつてテレビ・芸能界に大きな貢献をなした人びとだけが入居できる、世間から隔絶されたユートピアともいうべき無料の超高級老人ホーム――ただし、テレビ局の元社員はその対象から外されている。

テレビ・映画関係の情報サイトのこの記事の、「テレビドラマによるテレビ界や芸能界に対する痛烈な批評」「並行世界ドラマ、メタ・ドラマ」という表現は、そうした意味できわめて的確だ。

中島みゆきがこれまでずっと、テレビというメディアに対して非常に慎重な距離を取り続けてきたことは、彼女の熱心なファンなら先刻ご承知のことだろう。

彼女の最初のエッセイ『伝われ、愛』(1984年) に綴られている、局の担当者ともめたテレビ収録の終了後、たまたま局スタッフたちが彼女を罵る言葉を立ち聞きしたというエピソード――

スタジオは、コンクリートの壁も床も、なんて冷たいんだろう、と、そのとき思った。

――こうした経験が、その慎重な距離の背景にあることも間違いないだろう。

上記のインタビューにもあるように、夜会公演中の多忙な時期でありながら、中島みゆきがこの主題歌の仕事を喜んで引き受けたのも、長年の倉本聰への私淑に加えて、テレビというメディアに対する辛辣なまなざしへの共感ゆえでもあったのではないか――と想像してみるのも、あながち突飛ではあるまい。

「過去の救済」、重層する問い

ところで、主題歌「慕情」のリリースが最近ようやく発表された。発売日は、ドラマもそろそろ終盤に差し掛かるはずの8月23日である。

番組のオープニングでは、当初はずっと1番だけが流れ、まだ聴けぬこの曲の全貌に対して大いに気を持たせてくれた。が、41話(5月29日)のエンディングで、ようやく待望の2番が流れた。

菊村の釣り仲間、「大納言」こと岩倉正臣 (山本圭) が涙ぐみながら語る痛切な台詞――亡き妻にもう一度逢えるなら、若く美しかった頃ではなく、死ぬ間際の彼女にもう一度逢いたい――やはり妻に先立たれてここに入居した菊村は、この言葉に深く共感する。

初めて聴く「慕情」2番の歌詞は、この場面に重層することで、より哀切にその意味を伝えてくる。中島みゆきがとくに近年、夜会を中心に追求してきた「過去の救済」というテーマが、ここではより切実に、一人ひとりの人間にとっての等身大の感覚で歌いこまれているという感が強まってくる。

2番の歌いだし――

海から生まれてきた それは知ってるのに

――から、私が反射的に連想したのは、初期の名曲「小石のように」の最後のフレーズ――

砂は海に海は大空に そしていつかあの山へ

――「海」はすべての生命が流れ着く先であると同時に、すべての生命の源でもある、という輪廻のモチーフだ。

しかし「慕情」では、

どこへ流れ着くのかを 知らなくておびえた

と、人生の行く末へのおびえ、迷いが歌われる。

それはおそらくは、私たち有限の生命をもつ人間のほとんどが、愛する人や自らの生命の終焉に近づく時に直面せざるをえない、おびえ、迷いなのだろう。

そして、そのおびえ、迷いを越えた向こう側にしか、おそらく私たちがたどり着ける場所としての「海」はない――そこへたどり着くことへの祈りのごときものが、「慕情」の歌詞とくに2番からは聴こえてくる。

 

その翌々日の43話(5月31日)には、インストルメンタルで「慕情」の旋律がほぼフルで流れた。

5月の連休、「やすらぎの郷」は時ならぬ来訪者――入居者の子や孫たち――で賑わう。待ちわびた再会の時を楽しむ入居者たち――しかし中には、誰も訪れる者のない孤独な老人、あるいは、束の間の再会を経た別れのあと、号泣する老女の姿も――

この情景にかぶさる菊村のナレーション、

果たしてテレビは、かれらの夢かけた一生に報いることがあったのか
テレビは、かれらのために何かをしたのか

という言葉は、静かな憤りに満ちていて、容赦なく辛辣だ。

そしてこの場面で初めて、「慕情」の3番――中島みゆきお得意の鮮やかな転調による、いわゆる大サビの旋律――が流れる。

明日の行方は……たやすく翻るものだから

この歌詞は、さらにその翌週、48話(6月7日)のオープニングで、ようやく中島みゆき自身の歌によって明らかにされるのだが、43話の上記の場面ですでに、テレビという巨大メディアに翻弄されてきた一人ひとりの人生、そしてその救済への祈りが歌われていたことに、改めて気づかされる。

 

そして現在進行中のエピソードで、「過去の救済」というテーマは、より大きな文脈の中に位置づけなおされる。

入居者のひとり、大女優「姫」こと九条摂子 (八千草薫) が、戦時中の慰問活動の一環として、出撃間際の特攻隊員たちと「最後の晩餐」を共にしたというエピソード――しかし彼女はこの経験に深く傷つき、のちに戦死した特攻隊員の母から送られた手紙のこともあって、決して振り返りたくない記憶となっている。

この「最後の晩餐」をセッティングした当時の海軍軍令部の参謀、加納英吉が、戦後、大手芸能プロの会長となり、引退後「やすらぎの郷」の設立者となったという設定からみても、このエピソードがこのドラマの根幹をなす重要なものであることは明らかだ。

このエピソードを小説化しようとした、やはり入居者のひとりである覆面作家「濃野佐志美」こと井深涼子――この役を最近亡くなった野際陽子が演じていたのも、不思議な「縁」のような気がしないでもない――が、菊村の説得によって作品化を諦めたのち、破棄されずに残っていたゲラ刷りを素材として、国営テレビが終戦記念日用のドラマを企画する。

その企画の取材のため、主演を予定されている若手人気俳優・四宮道弘(向井理)が、プロデューサーとともに「やすらぎの郷」を訪れ、理事長夫妻と菊村の同席のもとで「姫」に会う――

――この先、ストーリーがどのように展開していくかは予断を許さない。ただ、このエピソードの真の当事者たち、すなわち、若き命を絶たれた特攻隊員たち、そしてかれらを座して見送らざるをえなかった「姫」の過去は、いかにして救済されるのか――

この問いは、図らずも、中島みゆきの近作、夜会『橋の下のアルカディア』の、あの悲痛かつ希望に満ちたラストシーンをも思い起こさせる。

「過去の救済」というテーマは、一人ひとりの生から、戦後日本を席捲したテレビという巨大メディア、そしてそのさらに背後に存在した「国」への問いにまで、重層しながら拡がってゆく。

――その問いがどのような方向にその答えを見出そうとするのか、その行く先を楽しみにしながら、ドラマの後半を見守ってゆきたい。


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