2008年11月24日(日)、12月6日(土)の2回、赤坂ACTシアターでの夜会VOL.15「夜物語~元祖・今晩屋」東京公演を観てきた。
物語のモチーフになっているのは、事前に中島みゆきのインタビュー等で知らされていたとおり、森鴎外の「山椒大夫」で知られる安寿と厨子王の物語。
この素材については、ずっと以前、1984年に唐十郎作のNHKドラマ「安寿子の靴」でも主題歌・音楽担当で参加していたので、中島みゆき自身、昔からこだわりがあったのかもしれない。とりわけ「自己犠牲」と「家族愛」の物語という定型的解釈へのオルタナティブを模索するという意味で。
今回の夜会は、そうした素材としての物語へのこだわりを感じさせる一方で、これまでの夜会で何度もかたちを変えながら提示されてきた「再生」ないし「転生」というテーマ――とりわけ前々作「ウィンターガーデン」と前作「24時着0時[00時]発」では、これが大きく前面に出ていたのは記憶に新しいところだ――の、さらに新たな展開という側面をも強く感じさせた。
家族の「縁」という横糸と、「前生・今生・来生」という輪廻転生の時間軸の縦糸が織り成す物語。
家族が家族であるがゆえに――子を攫われた母、再会の約束を果たせなかった姉弟が――それぞれ負わなければならなかった罪責と悔恨は、生きてゆく限り「縁」という横糸に縛られつづけざるをえない人間の普遍的な苦悩の象徴だろう。
「前生」から「今生」へ、そして「今生」から「来生」へという生の「リセット」によっても、その苦悩からの解放はなされない。しかしそのことは、人間が決して「救われない」存在であることを意味するわけではない。
再生されたすべての過去(前生)の記憶を、罪責・悔恨も含めてあるがままに自らに引き受け、それらを抱えたままで「赦され河」を渡ること――すなわち「赦され」ざる罪が「赦される」ことのできるような境地へと到達すること――そしてそのことによって、新たな「縁」と新たな生を獲得すること――「ほうやれほ」から「十二天」「赦され河、渡れ」を経て終曲「天鏡」に至る終盤の展開は、そうしたメッセージを力強く伝えていたように思う。
ただ、1回目の観賞では、上記のような基本的なメッセージは明確に受け取れたものの、歌詞・台詞・演出の情報量の多さ・構成の複雑さゆえに、終盤に至るまでの細部に、咀嚼しきれない部分が多く残る感があったのも事実だった。ネット上各所のブログ・掲示板等で、今回の夜会は「難解」との評判がみられたのもそのためだろう。
細部を論理的に理解するというよりは、各曲・場面ごとに、ほとんど無意識のレベルにすっと滑りこんでくるような不思議な感覚を楽しめるかどうかが、今回の夜会の観賞のポイントになるような気もした。
しかし2回目の観賞では、難解に感じられた部分もかなりクリアになり、中島みゆきをはじめ各演者・演奏者の思いが随所からひしひしと伝わってくるステージになった。冒頭の「十二天」で牛山玲名のヴァイオリンが弾きはじめる、心地よい揺れを感じさせるあの旋律から一気に舞台に引き込まれ、そのまま終曲「天鏡」での、遥かな天空を振り仰ぐ圧倒的な浮遊感にまで連れ去られた感があった。
カーテンコールが終って無人になったステージ、縁切寺も水族館も船も消え去った後の赤い床に、まだ安寿、厨子王、母、姥竹の声がこだましているかのような気がして、何度も振り返りながら客席を後にした。