『MIYUKOLOGIE』第18号、1993年
一
「待つこと」が今年で五年目を迎えた「夜会」のテーマだと聞いたとき、私の胸のうちには大きな期待とともに、さまざまに去来する思いがあった。
誰かを、あるいは何かを「待つ」ということは、私が追い求める誰かが、あるいは何かが、「今、ここ」には存在しないということだ。この不在の他者への果てしない憧れこそは、中島みゆきとその作品を、そしてそこに寄せる私達の共感を、おそらくは最も根源的な部分で方向づけてきたと言っても過言ではあるまい(1)。「夜会VOL.5」へのさまざまな思いも、まさにその根源からやってくる。
この原稿を書いている(一九九三年十一月三十日)現在、「夜会VOL.5」はまだ楽日を迎えていない。この段階でなんらかの結論めいたコメントをすることは主観的・心情的にも避けたいし、客観的にも時期尚早だろう。ここでは、今までに私が観た二回のステージ(初日=十一月十四日と、十一月二十一日)を思い起こしながら、それらをめぐる印象や感想、および私なりの解釈を、いわば中間報告として、断想風に綴ってみることにしたい。
二
最初に、どちらかといえば表面的な印象から記していくことにしよう。
一昨年の「邯鄲」、昨年の「金環触」が「夜会」のイメージを方向づけたとすれば、「夜会VOL.5」は大きくそのイメージの修正を迫るものとなった。
まずキャスト面。「邯鄲」「金環触」では中島みゆきの共演者として重要な役割を果たしていたコーラスの女性二人のうち、坪倉唯子がメンバーから外れ、杉本和世はステージの下に隠れてコーラスに専念することになった。代わって京劇出身の舞台俳優の張春祥が、中島みゆきの一人芝居に絡むいわば無言の狂言回し役として舞台に立つ。その結果、当然のことながら演劇への志向がさらに強まり、また舞台における中島みゆき本人の比重は著しく高まった。
この変更の原因の一つは、(今年のパンフレットを読めば明らかなように)昨年の「金環触」に対して「もっとみゆきさん本人の歌を聴きたかった」という感想が多かったことにあるのだろう。しかし、舞台俳優の採用に象徴される演劇志向の強まりは、たとえば昨年の「金環触」での黒子役の登場からもある程度予測できたことであり、さらにいえば、中島みゆきの「実験劇場」として「夜会」自体が当初からもっていた方向性に内在していたものとも言えよう。
しかし、より重要なのが構成面の変化である。屈折しながらも全体としては一貫したストーリーをもっていた前二回とはうって代わり、今回は複数の短いストーリーをつないでゆくという構成が採られた。全体は大きく二部に分かれる。第一部は四つの季節を辿りながら、四人の「待つ女」の姿を描いていく。第二部では、「待つ」と「待たない」の間の時間を盗みに来たという時間泥棒が登場し、「待つこと」や「時間」の意味について象徴的なコメントを展開する。この時間泥棒は、「金環触」の白衣の天体観測者と同様に、物語の客観的な観察者であると同時に、観客へのコメンテイターという役割を果たしているといえよう(明らかに後者の比重がより大きくなっているけれども。)
第一部がいままでになくシンプルかつストレートでわかりやすいのに対して、第二部の、とりわけ時間論をめぐる台詞や演出が難解であり、結果としてステージ全体の意図がつかみにくかったという感想を多くの人から聞いたし、私自身も初日を観終ったときにはそれに近い印象をもっていた。しかし、にも関わらず、初日を観終った私の中には、もしかしたら今までの夜会でも最も自分の深い部分に衝撃を受けたかもしれないという感覚があった。自分の今いる場所について、まったく新たな視界を開かれるような。
その理由をすぐには言語化できなかったのだが、その後、多くの友人・知人の感想や解釈から示唆を受け、また私自身も二度目の公演を観ることによって、わかりにくさの印象は後退し、自分の中の衝撃のかなりの部分を言語化できてきたように思う。とはいえ、依然として細部には(とりわけ第二部には)多くの謎や解釈の余地が残っているのだが。以下は、そのようにして――いまだ断片的にではあるが――私の中で言語化できた部分を、順に記憶を辿りながら記していくことにしたい(2)。
三
第一部の設定は、坂の下の喫茶店の吹き抜けになっている席。舞台やや左手後方には少し時代がかった街灯がある。(張春祥演ずる)ウェイターは舞台右手後方の透明な扉から現われる。舞台やや右手前方に置かれた丸いテーブルの左右に椅子があり、(中島みゆき演ずる)待つ女はいずれも右側の席に座る。左側の席は「待ち人」すなわち待たれる人の席であり、そこにはついに誰も訪れることがない。
このシンプルな舞台装置・同一のキャストで演じられるにもかかわらず、同じ「待つ」という行為をモチーフとして、これほど多様な方向のインパクトをもった物語が展開されうるものかと、私は驚きを禁じえなかった。
第一場の季節は梅雨。雨の中の無言劇である。テーブルには透明なビニールシートがかけられ、紫陽花が飾られている。舞台左手で雨が降り始める音で「夜会VOL.5」は始まる。(「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながせめし間に」という長いサブタイトルから、雨を降らせる演出はある程度予想できたことではあった。しかしオープニングでのこの演出は意表をつき、観る者を見事に異次元の物語の世界へと連れ去ってくれる。)
傘をさし紫の着物を着た女性が男物の傘を持って現れ、その持主を待つ。「家出」の歌詞からすれば、女は男と駆け落ちの約束をしてこの店に来たのかとも思われるが、それにしては荷物は草色の風呂敷包ひとつという軽装なのが不思議である。ここでは物語の背景設定はむしろ観客の想像に委ねられ、「待つ」行為のいわば原型が呈示されているのかもしれない。
曲は「どこにいても」「雨が空を捨てる日は」「家出」「バス通り」。
第二場の季節は冬。テーブルには白いテーブルクロスがかけられ、南天が飾られている。雪が降る中、白い服に身を包んだ少女が現れ、寒い吹き抜けの席にもかかわらず、ウェイターに「待ち合せなの」と得意げに告げる。少女は騙されたとも知らず、自分のラブレターへの男からの返事を何度も読み返す。男は友人たちと陰でその手紙を読み上げながら、彼女を見て笑っている。
「初めて私が長い長い手紙書いた人は仲間たちの目の前で大声で読み上げ笑ってた」という「遍路」(この歌は奇しくもこの場面ではなく、次の秋の場面で歌われるのだが)の歌詞を彷彿とさせるこの場面は、遠い時間のヴェールに包まれた記憶の中の悲しみを歌うそのフレーズとは違って、まさに今ここで生起しつつある残酷な現実として観客の眼前に突きつけられる。「観ているのがつらかった」「頼むからもうやめてくれと叫んで席を立ちたかった」といった感想を複数の人から聞いたが、私の思いもそれと一致する。
やがて少女はついに騙されたことに気づき、顔を掌で覆う。真っ暗な夜の背景に、いつしか吹雪が激しく舞い散っている。
曲は「笑わせるじゃないか」「人待ち歌」(新曲)「信じ難いもの」「サッポロSNOWY」。
第三場の季節は秋。テーブルには赤いテーブルクロスがかけられ、蝋燭が飾られている。爽やかな虫の音が聴こえ、街灯には秋祭の飾りがある。祭の法被を着た威勢のいい女が登場する。彼女は左の席の男に話しかけているように見えるのだが、男の姿は、観客の目にはもちろん、ウェイターの目にも見えていない。彼は実はすでにこの世にはいないらしい。
やがて彼女も、男の死がかつて起った現実であることを認識し、いつしか舞台の背景全面を覆っている紅葉の飾りの中へ消えてゆく。(ここは「夜会VOL.5」全編を通じても、最も痛切で透明な悲しみと美しさに満ちた場面だろう。)
この秋の女は、狭い意味での「待つ」女にはあてはまらない。「待つこと」は未来へ向けられた行為だけれども、ここでは逆に女の心は(男が生きていた)過去へと飛んでいる。そしてこの女だけが、第一部の他の三人の女とは違って、(少なくとも自分の目には)左側の席にいるはずの男の姿を見ている。従って、主観的には「待って」はいない。
このことは何を意味するのだろうか。まだはっきりした答は出せないのだが、ひとついえそうなのは、過去とは未来と違って(当然のことながら)取り返しのつかない時間であり、従って時間の呪縛、時間による支配もより完璧なものになる、ということである。
歌詞では繰り返し、「思い出に帰れない」「帰り道もとうになくした」と歌われるにもかかわらず、むしろそれだけよけいに、過去への想いが捨て去り難いものであることが物語られている。
そして、他の三人の女たちをこの秋の女と比較してみると、彼女たちは「未来」というまだ決定されていない時間に思いを馳せているはずであるにもかかわらず、秋の女と同じように、時間という支配者に呪縛されていることが見えてくるのではないだろうか。
曲は「ノスタルジア」「船を出すのなら九月」「遍路」「まつりばやし」。
第四場の季節は夏。テーブルには黄色のテーブルクロスがかけられ、宵待草が飾られている。蝉の声が聴こえる。大きなおなかを抱えた妊婦が右側の席に座り、海外赴任中の夫からのエアメールを読む。赴任先は政情不安で戦地と化しているという。夫は今日、日本に帰ってきてこの店に来るはずなのだが、いつまでたっても彼は現われない。夫の死の不吉な予感が確信へと変わっていくにつれて、花火の上がる平和な情景は、少しずつ高まる銃声にとってかわられる。戦火はいつのまにかこの日本にまで拡大していたのか。妊婦は倒れ、一瞬の閃光と轟音とともに舞台は暗転する。
ここは時間的にも第一部で最も長く、また第一部全体のテーマが集約的・結論的に表現されている箇所でもある。
一九八九年のスタート以来「夜会」を貫く基調テーマとして、新たな(特に日本の)女性像の呈示ということが、しばしば中島みゆき本人によって語られてきた。その文脈でいえば、第二部の四人の女は、運命に弄ばれ受動的に「待つ」ことしかできない伝統的な日本の女性像、という位置づけになるのだろう。(そしてそれが第二部で批判され、乗り越えられるのである。)ただし、彼女たちが運命に弄ばれることしかできなかったのは、必ずしも彼女たち個々人が弱かったから、(つまり、第二部の時間泥棒の台詞を借りれば、「待つ」ことを脱して「逢いに出かける」ことができるような強さをもたなかったから)ではない。
それがはっきり表現されるのがこの夏の場面である。ここでは、戦争という人間自身の行為が、人間の運命を支配し、世界の(あるいは歴史の、時間の)終末をももたらしうる絶対的な力として登場してくる。そうした力をもつ社会という巨大なシステムは、あたかも自然(ないし、第二部で暗示される、自然の超越的な力の象徴としての月)と同様に、人間の意志によるコントロールを越えた、人間に対する支配者として立ち現われる。その支配から少しずつでも脱しない限り、運命に翻弄される女たちの悲劇は無限に繰り返されるのだろう。
第四場が暗転で終わった後、再び雨が降り始め第一場の冒頭のシーンが再現されるのは、まさにこの永劫回帰を意味しているように思われた。
曲は「3分後に捨ててもいい」「りばいばる」「二隻の舟」「雨月の使者」「孤独の肖像 1st.」。
四
そう考えてくると、第一部では(歌詞でしか)姿を現さなかった月が、第二部で舞台左手上空に現われるのは、そうした超越者の姿を(その支配から脱却するまではまだできなくとも)、少なくとも目に見えるものとして対象化したことを意味するのかもしれない。
第二部が始まると舞台中央に、上方へ無限に続くかと思われる巨大な九十九折のスロープが降りてくる。第一部の重苦しい結末を打ち消すかのようにアコースティックギターの軽快なイントロが流れだす。「彼女の生き方」を歌いながら、舞台右手のマンホールから(中島みゆき演ずる)黒装束の女が登場し、「待つ」と「待たない」の間にある時間をいただきに来たと告げる。続けて曲は「テキーラを飲みほして」。時間泥棒は、過去を振り切ろうとするかのように、次々と酒の瓶をあおる。
続く静寂の中、時間泥棒はスロープの下部から大きな金属性の長方形の盆を取り出し、床に置く。彼女は舞台左手から水瓶を持ってきて、盆に水を注ぐ。(ステージ全体が右下がりに傾いているので、水は盆の右側からどんどんこぼれるのだが。)「たとえ世界が空から落ちても」をけだるく歌いながら、彼女は水に映った月を取ろうと何度も虚しく水盆に手を突っ込む。しかしやがて諦めた彼女は、「馬鹿みたい、と思った? ねぇ思った?」と自嘲的に客席に詰め寄る。(今回の「夜会」では数少ない、笑いを誘う場面である。)
水に映った月が取れないのは「色だけあって実がない」からだ、「最も美しい月、第一位」は「手の届かない月」なのだと時間泥棒は宣言する。(このあたりから、後に述べる月の象徴的意味の存在が明らかになってくる。)時間泥棒の台詞は、「時間」についてのコメントに移っていく。
正確な時間は他人が計らなくてはなりません。
正確な伝説は他人が記さなくてはなりません。
……
正確な時間は、正確な時間は、他人の手の中にあるのです!
この台詞自体が、最初は機械がしゃべっているかのような無機的なリズムで、途中からはテープの回転速度が狂ったかのように著しくテンポ(と声の高さ)を変えながら語られる。主観的・生理的時間と客観的・物理的時間とのずれを表現するように。
やがて時間泥棒は月を見上げながら客席にゆっくり語りかける。
いい月夜じゃないか……
待つと待たないの間の時間をとっぱらっちまった雨月の夜なら、
後に残るのはただひとつ、
逢うことだけだがね。
この台詞は直前とはうってかわって、ほとんどエロティックと言ってもいいほど蠱惑的で艶っぽい声で語られる。求めるべき何かが近づいたのか。
間髪を入れず「くらやみ乙女」のイントロが始まり、時間泥棒は白・赤・黄の三枚のテーブルクロスを長く引きずりながら再登場する。これは第一部の女たちの「待つ」と「待たない」の間の時間を手に入れたことを意味するのか、あるいは、叶えられなかった彼女たちの思いを受け継いだことを意味するのか。「くらやみ乙女」は歌詞が次のように変更されている。
待つことだけが美しいとは待ちも待たれもせぬ者の理屈
褒められても敬われても待ち人の代わりにはならない
季節が流れ去ろうとも
変わることなくあなたに会うでしょう
続いて「愛よりも」のイントロが始まり、時間泥棒は右側の椅子の上に乗り、まっすぐ客席を見つめて、何かを決意したかのように激しく語り始める(3)。その台詞の全文をここで正確に思い出すことはできないが、最も重要なのは次の最後の部分であろう。
必ずと疑わぬ目に時など映る隙があろうや
必ずと疑わぬ耳に時など響く隙があろうや
一途という名の地図を辿り、橋占に問うよりもその橋を渡って
待ち人が急ぐそれそこの道まで
逢いに出かけるまでのこと
ここで「待つこと」の受動性を脱して「逢いに出かけよう」という能動的意志が明確に提示される。「人を追いかけて時を追いかけて どこまでも行け」という「愛よりも」の歌詞の変更も、この意志の表現のひとつであろう。続いて時間泥棒はテーブルの上に身体を移し「人待ち歌」を歌う。第一部の冬の少女がか細い声で不安げに歌ったその同じ曲とはうってかわって力強く、「荒野を越えて銀河を越えて戦を越えて必ず逢おう」という強い意志をこめて。
曲は「夜曲」に移り、時間泥棒はついに舞台中央の九十九折のスロープを少しずつ這うようにして昇りはじめる。いつしか舞台上空に間近に迫った巨大な月に向かって。やがて時間泥棒は舞台の上空に消えてゆき、幕が降りる。
このラストシーンで明らかなように、「夜会VOL.5」では月はきわめて重要な象徴として登場している。それも、少なくとも二重の意味を帯びて。
第一に、月は「待ち人」ないしは待たれるべき「愛」や「夢」の象徴として登場する。しかし「最も美しい月は手の届かない月」なのであり、このことから二番目の意味が導かれる。すなわち、「愛」や「夢」へ到達しようとする人間の意志を超越的な場所から見下ろし、その運命を翻弄する時間の支配者として。
思い返してみれば、月は中島みゆきの作品においてしばしばそうした神秘的な象徴として(「シニカル・ムーン」「砂の船」)、あるいは理性の芽生え以前の段階でのみ可能だったような自然と身体との交感を可能にする超越者として(「月の赤ん坊」)登場していた(4)。(ラストシーンの巨大な月を見て、「夜会1990」の「月の赤ん坊」のシーンを思い出したのはおそらく私だけではないだろう。)
「待つこと」を「時間」というかたちで外部に対象化・客観化してとらえようとすれば、それはすでに「待つ」という行為の内的・主観的な意味を奪われたものにならざるをえない。その意味で「正確な時間は他人の手の中にある」のだし、時間泥棒は月の「実」をつかまえることができないのだ。月はそうした客観化によってはとらえられないからこそ超越的なのであり、第一部の「家出」「雨月の使者」で明らかなように、人間の運命をシニカルに見下ろし、翻弄しつづけたのである。
最後に時間泥棒が月へ向かってスロープを昇って行くのは、まさにこの月と人間との間の垂直軸の無限とも思えた距離を克服すること、すなわち超越的なものの支配から脱却することへの意志を表現しているとは考えられないだろうか。もちろんこの場面では第一義的には、月の第一の意味、すなわち「待ち人」あるいは「愛」や「夢」に逢いにゆこうという不滅の強い意志が表現されていると考えるのが自然なのだが。
また、「夜曲」ではじめて月は、「せめてあなたのそばへ流れたい」というせつない想いをもしかしたら叶えてくれるかもしれない、優しさに満ちた存在に変容する。その変容がなぜ可能なのかは、まだよくわからない。ただ、中島みゆきの作品の多くが、手の届かぬ他者へのつきせぬ想い、あるいは超越的なものの支配への反抗といった緊張関係をその本質としているのに対し、「夜曲」だけはそうした痛みに満ちた想いや緊張関係を免れているようにみえる。その平和な優しさに満ちた眼差しは、現実にはいまだ不可能であっても、いや、まさにいまだ不可能であるからこそ、ひとつのユートピアを暗示しているのかもしれない。(だからこそ、時間泥棒が月に到達しえたかどうかは最後まで客席には見えないのではないか。)
注
(1) 中島みゆきにおける「他者」の位置づけに関しては、「生きていてもいいですか」までの初期と、「臨月」以降とでは大きな変化があるというのが私の見方である。この点に関しては、拙稿「『異国』から『EAST ASIA』へ――中島みゆきにおける『故郷』の変容」(『MIYUKOKOGIE』第十七号、一九九三年)を参照されたい。(2) 本稿での「夜会VOL.5」の解釈は、パソコン通信ネットワーク「歌暦ネット」「WITH-NET」、およびASCII-NETの「中島みゆきSIG~歌姫」に寄せられた多くの中島みゆきファンのメッセージから示唆を得てはじめて可能になったものである。一人一人のお名前を記すことはできないが、ここに深く謝意を表したい。